バックナンバー vol.11

伊万里市の泉秀樹副市長がおすすめする本の書評を掲載しています。
紹介された本は毎回、市民図書館の中央サービスデスクで展示していますので、どうぞご覧ください。
本を読みたい方は予約もできますので「本の詳細」をクリックしてみてください。


令和3年12月
永遠の0』 百田尚樹/著 講談社  「本の詳細

 『永遠の0』は、百田尚樹氏が太平洋戦争の最初から最後まで日本海軍の主力戦闘機であり続けた零戦(れいせん、通称はゼロ戦)の運命と言いますか、戦場でどの様な変遷をたどったのかを、優秀なパイロットだった主人公、宮部久蔵(みやべきゅうぞう、架空の人物)の生き様を通して描いた小説です。
 また、ゼロ戦のパイロットに限らずとも日本軍の多くの戦闘員(兵隊)が、命令する側(海軍軍令部や陸軍参謀本部)の人間達が下した、現場を無視した無謀な作戦や命令によって失わずに済んだ命を失い、やがて日本を亡国の道へ導いた事への百田氏の痛烈な批判が、この小説の根底にあるのが読み取れます。特に、日本軍の基地があったラバウルからガダルカナル島への爆撃機援護というゼロ戦パイロットに課された過酷な任務と、ゼロ戦による米国艦隊に対する特攻(特別攻撃)が大きなテーマとして取り上げられています。約1,000キロも隔てた島への連日の出撃という無謀な作戦により、優秀なゼロ戦パイロットや爆撃機の搭乗員が数多く失われた事が、特攻という人命軽視で前代未聞の攻撃法へつながった大きな原因ともなります。
 百田氏は、家族のためにも自分の命を大事にしたいと思う宮部を通じて、戦争の現場にいた人達の実態と生き様を描きたかったのだと思います。私は、特攻で亡くなった前途ある若者たちの心情を思うと、やるせない気持ちとともに、自分であれば耐えきれないという思いがします。我々日本人はこの人達の事を決して忘れてはならないと思います。
 かつて特攻隊の基地があった鹿児島県知覧町に、明日特攻に行くと決まった若者たちが最後の夕食を食べに行ったという食堂があり、その食堂の店主だった鳥濱トメさんは、親身になって若者たちの話を聴き、若者たちに自分の息子のように接されたそうです。元東京都知事だった石原慎太郎氏は、鳥濱トメさんから当時の話を聴き、鳥濱さんが特攻に行った若者たちから母のように慕われていた事を知って、当時の宮沢(喜一)総理に鳥濱トメさんに国民栄誉賞をと進言したところ、にべもなく断られたと言われています。
 これからは私事になりますが、日曜日の午後に放送がある「そこまで言って委員会」という番組をよく見ています。ずいぶん前に放送されたその番組で、今は故人となられたコメンテーターだった三宅久之氏の以下の話を忘れることができません。「靖国神社の境内に遊就館(ゆうしゅうかん)という建物があるのですが、その建物の中に太平洋戦争中に特攻で散華(さんげ)された方々の遺影が展示されている場所があります。その一画に花嫁人形がいくつか飾られた場所があるんですね。遺族の人達から贈られた人形だと聞いたのですが、特攻で亡くなられた方は多くが20歳前後の若者で、その殆どがまだ独身だったんですね。それを哀れに思った遺族の方々が、せめてあの世できれいなお嫁さんを迎えて欲しいとの思いから、花嫁人形を寄贈しておられるんです。私は、あの花嫁人形を見ると涙が出て仕方がないんです。」
 この話を聴いてから、私は東京へ仕事などで行った時、時間があれば靖国神社へ行くようになりました。


令和3年11月
葉隠三百年の陰謀』 井沢元彦/著 徳間書店  「本の詳細

 今回は番外編ということで、私が経験した不思議な、そして少し怖い話を書きたいと思います。
 今から20年近く前の平成15年の事ですが、私はK市にあった農林事務所で広域農道(正式名称は広域営農団地農道整備事業)建設の仕事を担当していました。この事業でT町の嘉瀬の坂(かせのさか)という所に橋を架ける計画があり、事務所の工事担当と用地補償担当の職員総勢5~6人で現地調査をすることになりました。橋の下になる土地は買収し、そこに物件等がある場合は補償を行うのですが、予定地内に「無縁仏がある」と地元の人から聞いていたのです。その場所は、嘉瀬の坂の集落からほど近い、集落に通じる道路から人が通れる位の急な細い道を10メートル程登った所で、昼間でも薄暗いうっそうとした竹林でした。注意深く見れば平地になっている竹林の周りのあちらこちらに、大き目の石を置いただけの墓と思しきものが幾つもありました。地元の人の話では、昔この付近で合戦があり、その時討ち死にした武者の墓らしいという事でした。
 工事予定地に無縁仏がある場合は、新聞(全国紙と地方紙)に「この仏様に心あたりはありませんか?」という趣旨の広告を掲載した上で、現地近くに「工事の予定があるので、仏様に心あたりがある人は申し出てください。」という看板を設置し、1年間の猶予期間を設けて申し出の有無を確認する必要があります。また、この看板の仕事を請け負った業者は、設置したという証拠写真を農林事務所に提出する必要があります。このため、請負業者が写真を持参されたのですが、担当者の話ではその人の顔色が真っ青だったそうです。後で私も写真を見せてもらったのですが、夕方頃撮影されたと思われる2枚の写真には、どちらにも設置された看板の周りを飛び交う人魂(ひとだま)と思われるようなものが沢山写っていました。写真の正体は何かという議論で、農林事務所の中は一時騒然となったのですが、私自身はその写真を見てからしばらくの間、自宅に帰って風呂場で洗髪をする時に誰かが後ろに立っているような気がしてなりませんでした。その度に目をこすって振り返っても、誰もいないのですが…。
 それから、農林事務所にヤクルトを配達に来るKさんという30代位の女性の方がいたのですが、何か特別な能力を持った女性だったのでしょう。私はこの人から念力のようなもので腰痛を治してもらったことがありました。後で事務所の職員から聞いた話なのですが、ある日そのKさんが事務所に入った途端に顔をこわばらせて、「何か(様子が)おかしい。変なものがあるんじゃない?」と叫ばれたそうです。その時、事務所の入口近くにいる補償担当の職員が、たまたま机の上に例の写真を出しっ放しにしていたのです。その後、1年経過しても無縁仏について申し出る人も無かったので、橋の予定地外の適当な場所に上司(後に副知事になられたM氏です)から怒られるくらいの立派な墓を建てて、丁重に無縁仏を合葬したおかげか、橋は工事中の事故もなく無事に完成しました。
 これ以来、私は世の中の不思議なことを信じる気持ちになった次第です。では、この無縁仏は誰なのか?後に、私なりに考えた結果が以下のとおりです。井沢元彦氏の『葉隠三百年の陰謀』の冒頭に、佐賀藩が島原での戦さで薩摩藩に大敗した話がありますが、この時に薩摩藩は落武者狩りを徹底的にやったそうです。戦さに敗れた佐賀藩士は、佐賀を目指して敗走するのですが、行き止まりになっている谷間にある嘉瀬の坂に逃げ込んだ多くの武者達が、追ってきた薩摩藩士に無念にも討ち取られてしまい、その武者達を地元の人々が集落近くに丁重に埋葬したのではないか、と。いずれにしても、この無縁仏のご冥福をお祈りしたいと思います。


令和3年10月
逆説の日本史 2巻』 井沢元彦/著 産経新聞出版  「本の詳細

 聖徳太子のことを書いてからだいぶん経ちますが、今回は“壬申の乱”を取り上げてみたいと思います。皆さんも学校で習ったと思いますが、“壬申の乱”に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ)が即位して天武天皇となり、「古事記」や「日本書紀」の編さんを命じたことはご存知のとおりだと思います。しかし何故、天武天皇が日本の歴史を明らかにしようとしたのか、その理由について井沢氏は興味深い事実を紹介しています。
 天武天皇の一代前は天智天皇ですが、天智天皇は京都府と滋賀県との境にある山科(やましな)付近で、山遊び中に片方の靴だけを残して行方不明になり、関係者の懸命の捜索にも拘わらず、結局何も見つけることができませんでした。このため、後を継ぐ天皇の位を巡って天智天皇の息子と弟(大海人皇子)が争ったのが”壬申の乱”なのですが、結果的に大海人皇子が勝利して天武天皇となりました。
 しかし井沢氏は、天智天皇が行方不明になったことに大海人皇子が何らかの形で関わっているのではないか、それに大海人皇子は出生年が明らかにされておらず、天智天皇の弟ではなかったのではないかとも言われています。天智天皇の朝鮮半島の諸国に対する政治姿勢が危なっかしく、大海人皇子から見れば、これでは国(日本)を危うくするとの大きな危機感が事件の背景にあるようです。井沢氏の説が正しければ、おそらく天武天皇は皇位継承順位がだいぶん下の人物だったのでしょうが、自己を正当化する目的から「古事記」や「日本書紀」の編さんを命じたのも納得できる気がします。天武天皇という勝者によってつくられた歴史は、本人にとって都合の良いものであるに違いありませんからね。そういうことから、日本国の正史と言われる「日本書紀」も、天武天皇に関する記述には注意するべきなのかも知れません。しかし、天武天皇が日本の古代史をまとめあげたという業績はすばらしいと思いますし、朝鮮半島など外国との関係も良好でしばらく日本の平安が続いたことから、結果的には良かったとも言えるのではないかと思います。
 天武天皇の例に見るように、何か心にやましい物(思い)を持つ人は、自分を何とかして正当化しようとするのが習いのようです。だいぶ前に『葉隠三百年の陰謀』(井沢元彦/著)の書評の中で少し触れたのですが、佐賀藩の有名な『葉隠』の書物にある「君主には無条件に忠義を尽くせ」という教えには、長崎県島原における薩摩藩島津氏との戦さの中で起きたある事件に、その源があるようです。この島原での戦さに佐賀藩は大敗するのですが、小説の冒頭部分には、佐賀藩の藩主が龍造寺氏から鍋島氏に代わる契機となった負け戦の原因とも言える、当時、龍造寺氏の部下であった鍋島氏の裏切りと言える行為が書かれています。
 はたと我が身を顧みれば、私がせっせと書評を書いているのも、心にやましいことがたくさんあるからかも知れませんね。



令和3年9月
疫病2020』 門田隆将/著 産経新聞出版  「本の詳細

 本のタイトルの"疫病”というのは、もちろん“新型コロナウイルス感染症”(以下「新型コロナ」という。)のことですが、この本が発刊された昨年(令和2年)6月下旬の時点で、怪物と表現されている門田隆将氏がこの病気をどう捉えておられたのか興味があり、伊万里市民図書館の職員さんにお願いして、本を取り寄せる形で読ませていただきました。【9/17追記 本が入荷しましたので、借りられるようになりました】
 読後の私の感想ですが、「新型コロナの発生から多くは時間が経過していない時点で、この病気への日本国内や外国の対応の違いや問題を詳細に観察され、またこの病気が発生した起源について、核心に迫る興味深い事実を把握されていた事などに大変驚いた。」というものです。門田氏が得た情報は、外国からネットで発信された外国語のものが大半だと思うのですが、その的確な情報収集力と分析力には驚嘆させられます。また当時、自身が発したツイッターの文章を時系列的に紹介しつつ、この病気に対する認識が甘かった日本政府(当時は安倍政権だった)の対応に対する率直な批判には共感すると同時に、門田氏の忸怩(じくじ)たる思いが強烈に伝わってきます。門田氏が、令和元年の暮れ以降、中国武漢の海鮮市場付近で確認された新型コロナへの中国政府の対応の仕方をつぶさに把握され、感染力が強いこの病気の危険性を十分に認識されていたからこそ、残念な思いをされた事が理解されます。皆さんも、今からでも是非『疫病2020』を読んでいただければ、新型コロナへの認識が深まるのではないかと思います。
 以下は新型コロナについて、私の記憶と少々の愚見を書かせていただきます。私が新型コロナ(当時は発生地名から武漢肺炎と言われていたと思います)が中国の武漢で流行している事を知ったのは、昨年の1月中旬頃、日曜日の朝の報道番組でだったと思います。その番組の中で専門家という方が、「去年の暮れから、武漢の海鮮市場で肺炎の症状がある人が複数確認されている。詳しいことはわからないが、我々はこの病気をいたずらに恐れることはないだろう。」と話されていました。またその頃の国会では、主要野党が「桜を見る会」の問題で安倍首相の追及に一生懸命で、NHKを始めとする全てのテレビと多くの新聞などの報道も同様の対応でした。結局、この「桜を見る会」の問題追及は、新型コロナが世界中に拡がり始める昨年の2月中旬頃まで続くのですが、門田氏も言われるように、それが政府の足を引っ張り、対応の遅れを招いたのも否定できないでしょう。
 当時の日本には新型コロナへの危機感など全く無く、今から振り返れば、専門家や政治家やマスコミも情報収集力が貧弱で、能天気だったと思わざるを得ません。今となっては失敗を繰り返さないように、新型コロナを反省材料として、次に何かあった時はうまくやるぞという気概と実行力、特に危機対応の体制造りと法整備等が求められますが、今のところ、どこにもそういう雰囲気は窺(うかが)えません。さらに、この本を読んでわかったのですが、門田氏は重要な情報はツイッターやブログなどのネットから収集されてます。これは最近の若い人達も同様だと思います。ネットからは新型コロナを含めて、真偽様々な情報が手に入るでしょうし、専門的な情報もあって物事への理解がより深まるというメリットもあるでしょう。
 この本には、中国では新型コロナの治療薬としてアビガン他5つの薬の有効性を確認し、医師の間で共有しているため、医療機関の混乱は無くなっているとの記述がありますが、1年以上経過した現在ではより効果がある薬も見つかっていることでしょう。最近の日本での感染者の急増をみると、もしかすると若い人達は、ネットの情報をより重視していて、テレビや新聞の報道(騒動?)をあまり気にしていないのではないかと危惧しています。



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