バックナンバー vol.10

伊万里市の泉秀樹副市長がおすすめする本の書評を掲載しています。
紹介された本は毎回、市民図書館の中央サービスデスクで展示していますので、どうぞご覧ください。
本を読みたい方は予約もできますので「本の詳細」をクリックしてみてください。


令和3年8月
『集団自決の真実』
曽野綾子/著 ワック 「本の詳細

 この本は、太平洋戦争末期に沖縄県渡嘉敷島で起こった住民の集団自決事件の真相を探るため、曽野綾子さんが現地住民や日本軍関係者の証言をできる限り多くの人から、なるべく詳細に聴き取ってまとめられたものです。また、この本には『ある神話の背景』というタイトルで昭和48年に曽野さんが発表されたものを、後に改題して出されたという経緯があるようです。現在ではこの事件を取り上げる人はあまりないようですが、私の記憶では今から20年以上前、先の大戦末期に渡嘉敷島で起きた住民の集団自決事件に日本軍関係者の関与(命令)があったのかどうかが、軍関係者の遺族が提起した裁判で争われました。その当時には、曽野さんの『集団自決の真実』が発行されていたので、これを読んだ人は渡嘉敷島における事実関係が理解できたのではないかと思います。一方で、大江健三郎氏が書かれた『沖縄ノート』や他の書物(私自身はこれらの本を読んでないのですが)には曽野さんの調査結果とは反対の、事実と異なる事が書かれているということのようです。曽野さんは、この『集団自決の真実』の中で、大江氏が沖縄の現地に一度も足を運ぶことなく、住民の話も聞かずに、日本軍関係者の関与があったと断定されていることを強く批判されています。もしそうであれば、大江氏はご自身の思い込みで事実に反する事を書かれたことになるので、私はノーベル賞を受賞された大江氏だからこそ、これは大変残念な事だと思います。
 既に太平洋戦争の終戦から75年以上が過ぎようとしていますが、我々日本人はこの戦争から何を学んだのか、時々疑問に思うことがあります。何かを学ぶためには、まず事実をなるべく正確に捉える必要があると思うのですが、我々はそういう努力をしてきたのか、特にその時代を経験した人の話を聴く事が大変重要になると思います。
 私事になりますが、私の父が亡くなって30年以上経った今でも、父の生前に聞いた戦争の話のいくつかははっきりと覚えています。また、故人である作家の吉村昭氏が太平洋戦争を小説の題材として取り上げなくなったのは、時間の経過とともに戦争を経験した人が亡くなってしまい、話を聴いたり、証言を得る事が難しくなったためだと述懐されています。今ではもう、戦争体験者の話を直接聴く事は相当に難しくなりましたので、我々は太平洋戦争についての体験や証言等をまとめた本から知識を得るしか方法が無くなりました。そういう意味で、曽野さんのこの『集団自決の真実』とともに、門田隆将氏がまとめられた『太平洋戦争最後の証言』三部作(零戦・特攻編陸軍玉砕編大和沈没編)を読んでみられることをお勧めしたいと思います。



令和3年7月
『若冲』
澤田瞳子/著 文藝春秋 「本の詳細

 澤田瞳子(さわだ とうこ)さんは昨年の直木賞候補の一人でしたが、残念ながら受賞はなりませんでした。澤田さん程の優れた文筆家でも受賞を逃してしまうのですから、文壇の世界もやはり厳しいんだなと思ったものです。
 若冲(じゃくちゅう)という人物は、姓は伊藤と言う江戸時代の画家なのですが、近年、鶏を描いた絵を始め、動植物などを超細密に描いた数々の絵がテレビ番組などで紹介され、有名な人物になりましたので、ご存じの方も多いと思います。
 若冲は生涯独身だったとも言われてますが、澤田さんは『若冲』の中で、若冲は枡源という問屋の跡取り息子で妻がいた男として書かれています。しかし、若冲は絵に熱中するばかりの男で、商売や世の中の付き合いなど世事に興味が無く無頓着でした。そのような頼りにならない夫を持ったがために、苦労を重ねた妻のお三輪(みわ)は自殺してしまいます。妻に先立たれた若冲は深い後悔に苛(さいな)まれ、商売そっちのけの生活に変りは無かったものの、亡き妻の鎮魂のために全精力を傾けて絵を描く鬼人となり、皆が息を呑むような絵を生み出すようになります。
 しかし、物語は意外な方向に展開していきます。お三輪の自死が若冲のせいだと考えるお三輪の弟「弁蔵」が、復讐心から若冲に対抗心を燃やして自らも絵師となり、若冲の絵を模写したような優れた絵を次々に世に出して、若冲を悩ませます。また、妻に先立たれた若冲の身の回りの世話をするようになった妹のお志及が、ただ一人若冲を気遣い理解してくれたことなど。
 『若冲』は、澤田さんが若冲に関して苦心して集めた資料をもとに、伊藤若冲という傑出した絵師の生涯を描き出した小説ですので、興味がある方は是非一度読んでみてください。若冲の絵に何故あれほど凄(すご)みがあるのか、理解できるかと思います。

   

令和3年6月
『逆説の日本史 25巻』
井沢元彦/著 小学館 「本の詳細

 これまで『逆説の日本史』は歴史が古い順に取り上げるつもりだったのですが、私自身少し考える所もあり、皆さんに知ってもらいたい、或いは考えてもらいたい事から書くことにしたいと思います。そこで今回の『逆説の日本史』シリーズについて、取り上げる題材は時代について順不同、いわば「アットランダム」になるという事で、ご了解いただきたいと思います。
 今回は一気に時代を飛んで“日露戦争”を題材にします。現在でも「日露戦争は海外が戦場になった戦争だから、日本の侵略戦争だ。」と言う人がいます。ウィキペディアには、「日露戦争は、大日本帝国とロシア帝国の間で、朝鮮半島と満州の権益をめぐり引き起こされた。」というふうに書かれています。結果的に日本(当時は大日本帝国)が勝利し、朝鮮半島などに権益を得たので、そういう表現もできるのでしょうが、井沢氏は何故日本が大国のロシアを相手に、満州などを戦場として戦わざるを得なかったのかを明確に説明されています。
 日清戦争後のロシアは、日本の教科書に「ロシアは、冬場でも凍結しない港を求めて南下政策をとった。」などともっともらしく書いてありますが、当時の各国の認識は、ロシアは他国の領土を侵略する意思を明確に持った危険な国だというものでした。ロシアの侵略の矛先が明らかに日本に向いている事に気が付いた日本政府は大変な危機感を覚えて、ロシアの戦争準備が充分に整わないうちに、国の命運を賭けて戦端を開こうと考えました。具体的には、急速に鉄道の敷設が進みつつあったシベリア鉄道が完成する前という事と、バルチック艦隊が欧州のバルト海にいるうちに、という事です。日本の勝機がわずかながらでもあるとすれば、これ以外の選択肢はないとの判断でした。
 シベリア鉄道が完成すれば、大国であるロシアは兵士や武器などを大量に極東へ送ることができますし、バルチック艦隊が旅順港を母港とするロシア太平洋艦隊と合流すれば、日本が総力を挙げて急造した連合艦隊の倍以上の勢力になり、到底勝ち目は無くなります。両国の国力の差があり過ぎることもあって、当時、日本とロシアが戦って日本が勝つと考えた国はありませんでした。
 日本政府が何より恐れたのは、ロシアが戦端を開く時には日本本土が戦場になり、そうなれば一般国民の生命や財産などに甚大な被害が出ることは避けられませんし、敗戦となればロシアに国土の相当な面積を奪われる事は間違い無いという事でした。この時、判断を誤っていれば私達、少なくとも九州に住む日本人は今頃ロシア語を話していたかも知れませんね。
 日露戦争に参加した日本の兵士達は、ロシアとの戦争に敗れたらどうなるかを心の底から認識していたのだと思います。そうだからこそ旅順港をめぐる有名な二百三高地の戦闘で、コンクリートで固められたロシア軍のベトン(要塞)から機関銃を乱射され、前を行く兵士がバタバタと倒れても兵士達は突撃を繰り返したのではないでしょうか。そう考えると、日本の兵士達は命を無駄にするバカな行為をしたとこれまで思っていたのが、違った感慨が湧いてくる気がします。

 現在の世界の状況を見れば、日本の隣の大国が香港の民主化運動を弾圧したり、100万人とも言われるウイグルの人達を強制収容所に入れたり、自国の領土のみならず領海まで拡大しようとする行為は、まるでナチスドイツの振る舞いのように見えてしまうのですが、私達日本人はこれらをどう受け止めるべきなのでしょうか。米国を始めとして、英国やフランスは今から80年程前、ナチスドイツの専横に対して穏健策を採ってしまったことがヒトラーを増長させ、結果的に第二次世界大戦をもたらしたという苦い経験から、インド・太平洋への艦隊派遣を決定し、実行しているのだと私は考えています。日本以外の欧米諸国は、過去の歴史の教訓を踏まえて自国の意志を明確に示そうとしているのでしょう。
 日本も尖閣諸島の問題がありますし、日露戦争の教訓を踏まえて日本は専守防衛に固執していて大丈夫なのか、コロナだけに振り回されずに、安全保障や防衛の問題を国民を代表する人達が早急に議論するべきだと思うのですが。
   

令和3年5月
『のぶカンタービレ!』
辻井いつ子/著 アスコム 「本の詳細

 皆さんはプロのピアニストの辻井伸行君をご存知ですか?辻井君は生まれつき目が見えないのですが、本人の努力と彼を援助するたくさんの人々に恵まれ、今では天才的ピアニストと言われるまでに成長しました。少々私事を書かせていただくと、私が彼の演奏(生演奏のピアノソロです)を初めて聴いたのは、今から4、5年前に佐賀市文化会館で開催されたコンサートでした。偶然にも私の妻の友人が急用でコンサートに行けなくなり、妻がその人からチケットを2枚譲り受けたのがきっかけでした。
 私は辻井君の名前くらいは知っていたので、一度演奏を聴いてみたいと思い、妻と出かけたのですが、当日は1,800名程収容できる大ホールは中高年の紳士・淑女で満席でした。彼はタキシードを着た紳士に手を引かれて入場し、ピアノの前に座ると少し確かめるような仕草をした後、すぐにピアノを弾き始めました。無知で恥ずかしい話なのですが、私は彼が盲目であるが故に、何度か間違えるのは仕方がないと思っていたのですが、そんな懸念は彼が演奏を始めた後、瞬時に吹き飛んでしまいました。
 コンサートは途中2度の短い休憩をはさみ、全部で1時間半位のプログラムでした。彼の幼い時からの成長の様子や、これ迄に訪れた世界各地の風景などを背後の大型スクリーンに映し出し、そのシーンに合った曲を弾くという構成だったのですが、流れるようでメリハリが効いた、きれいなピアノの音色に思わず引き込まれてしまいました。コンサートが終わっても拍手が鳴り止まず、何度もアンコールがあったのですが、彼はその度に例の紳士に手を引かれて登場しました。3~4回目のアンコールの時、彼は東日本大震災の後に自ら作曲したという「それでも生きて行く」という曲を弾きました。私は不覚にも、この曲を聴くうちに思わずポロッと涙が出てしまい、これはまずいと思って慌てて周りを見渡したのですが、あちこちから鼻をすする音が聞こえてきて、「ああ、みんな同じなんだな。」と思い、誰にも見られなかったことに一安心した記憶があります。
 『のぶカンタービレ!』という本は、辻井君が年齢制限ぎりぎり(もちろん最年少です)の時に出場したショパンコンクールの時のエピソードを中心に、彼がピアニストとして成長する様子を、母の辻井いつ子さんが描いたものです。いつ子さんは全盲という大きなハンディを背負った我が子を愛情を持って、しかし少し厳しく接して育てられたようですが、他の子供達よりも多くの経験をさせたいと考え、望むならどこへでも連れて行ったそうです。そういういつ子さんの積極的な所が、彼のピアノ演奏に深みと幅を持たせているのかも知れませんね。彼自身も幼い頃のエピソードにあるように、生まれながらにして特異な才能を備えていたようですが、その才能を見出して育て上げたいつ子さんの苦労と努力は並大抵では無かった事が窺われます。私は彼のコンサートを聴いた後、BS放送などで特集番組をいくつか見たのですが、改めて自らの認識不足に恥じ入るとともに、彼の演奏のすばらしさと様々な実績に感動しました。
 この本には、辻井君がどういう方法で長くて難しい曲を覚えるのか、また佐渡裕(さど ゆたか)さんや三枝成彰(さえぐさ しげあき)さんなど高名な音楽家との関わりなども書かれていますので、大変興味深く読むことができます。
 是非皆さん、一度読んで感動していただければと思います。   



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