バックナンバー vol.8

伊万里市の泉秀樹副市長がおすすめする本の書評を掲載しています。
紹介された本は毎回、市民図書館の中央サービスデスクで展示していますので、どうぞご覧ください。
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令和2年12月
『海賊とよばれた男』
百田尚樹/著 小学館 「本の詳細(上巻)」、「本の詳細(下巻)

 百田尚樹氏の著作である『海賊とよばれた男』は、出光興産の創業者である出光佐三氏(いでみつさぞう、小説の中では国岡鐵造で、以下「佐三氏」という)の会社経営理念やその人柄に百田氏が感動して書かれた小説ですが、今から7年前に本屋大賞を受賞しています。太平洋戦争の敗戦により財産や仕事など全てを無くした佐三氏ですが、会社の社員は家族同然だという考えのもとに一人の社員も解雇しませんでした。また、社員も社長である佐三氏を信頼し、会社の経営を建て直すために結束して、どんな仕事でも嫌な顔一つせず引き受けたといいます。
 やがて本業である石油販売業に本腰を入れることができるようになり、自前のタンカーである日章丸(二世です)を持って間もなく、佐三氏は大事件を起こします。昭和28(1953)年の「日章丸事件」と呼ばれる事件で、百田氏がこの小説を書かれたのは、忘却されつつあったこのできごとを日本国民の皆さんに思い出して(知って)欲しかったというのが最大の理由である、と私は思っています。
 「日章丸事件」というのは、欧米(この場合は英国)の石油メジャーの支配から脱して油田を国有化したイランから石油を購入し、それを日章丸で日本に運んできたというものです。当時、英国はイランから石油を買ってはならないと国際社会に警告を発しており、違反した船が発見されれば拿捕(だほ)されたり、最悪の場合は英国軍艦から攻撃される可能性もあり、その警告を無視する事は大変危険な行為だったようです。
 それでも、欧米の石油メジャーが全世界の石油を支配している事に疑問を持ち、ひいてはイラン国民のためにもなるということで、佐三氏はイランからの石油輸送計画を実行に移しました。ここで面白いのは、出光興産は事前に船舶の保険を始めとして、石油販売等の様々な手続きを行う必要があるのですが、佐三氏の考えに共感する複数の日本人がいて陰に陽に手助けをしたという事実で、戦後まもなくの日本にも欧米のおかしい所はおかしいと考える人達がいたことです。無事にイランにたどりついた日章丸は、港に集まった多くのイラン国民から大歓迎を受け、苦難の末に(英国の船に見つからずに)なんとか日本へも帰港することができました。
 話は変わり、昨年のことですが、イラン核危機に際して国際社会が注目する中、我が国の安倍首相が交渉のためにイランを訪問しました。この時、安倍首相はロウハニ大統領との会談後、イランの最高指導者であるハメネイ氏とも会談されたことに全世界が驚きました。これと同じ頃、ロシアのプーチン大統領もイランを訪問したのですが、彼はロウハニ大統領との会談しかできませんでした。安倍首相がイランから破格の待遇を受けた事は間違いなく、日本のテレビなどマスコミは「日本とイランの間には古くから親しい関係がある。」とその理由を述べていたと思うのですが、私にはそれがどういう具体的な事実によるものかわかりませんでした。
 考えて思い付いたのが、イランは自分たちが苦しいときに助けてくれた日章丸の事を今でも恩に感じているのではないかという事です。欧米各国は、その国で一番の稼ぎ頭で国富に多大な貢献がある石油メジャーに対して気を使わざるを得ないでしょうし、それだからこそ日本としては「日章丸事件」を表に出しにくいし、言えなかったのでしょう。明治時代に起きた軍艦エルトゥールル号遭難に際して、和歌山の人々や日本に対する恩義を今でも忘れないトルコの人々の例もありますし、この日章丸の事を忘れないイランの人々にも、私達日本人は見習う必要があるのではないかと思います。
 今からほんの10年前の東日本大震災の時、巨大津波に財産も家族も奪われた東北地方の人々が、整然と炊き出しの列に並び、顔には笑顔さえ浮かべていたのに感動した在日米軍の兵士達が、全力を挙げて献身的に救助・救援活動などを行った「トモダチ作戦」を皆さんは忘れかけていませんでしたか?
 

令和2年11月
『逆説の日本史』
(その4) 井沢元彦/著 小学館 「本の詳細

 聖徳太子(以下「太子」という)と言えば「十七条の憲法」を制定した人であり、皆さん誰もがご存知だと思います。彼は初めての女性天皇である推古天皇の摂政という地位であり、皇太子でもあったのですが、ついに天皇になることはありませんでした。推古天皇が即位された時、聖徳太子は20歳を過ぎており、天皇となる資格は充分にあったのですが。
 井沢元彦氏は『逆説の日本史』でその理由について述べられていますが、「聖徳太子は気持ちが弱くなったり、気分が落ち込むような時がある少々精神面で問題を持っていた時期があったのではないか。」と推測されています。それでも太子は、日本のお札(紙幣)にもなるような深い思慮を持ち、実務にも長じた立派な人物であった事は変わりませんし、「十七条の憲法」を始めとする太子の摂政時代の業績は、今でも私達の心の礎(いしずえ)になっていると言えるのではないかと思います。
 井沢氏は、「十七条の憲法」の中で太子が最も言いたかったのは「和」の精神であり、何事も独りで決めるのではなく、話し合いで決めなさいという事だと主張されています。最も大事なことや言いたいことは、最初か最後に書くものだという普遍的な真理から言っても、第一条と最後の第十七条に同様なことが繰り返し説かれていることから、私は井沢氏が言われるとおりだと思いますし、これは現在でも日本人である私達皆の心に通底しているものだと感じています。
 これからは少々長い私事になって恐縮なのですが、3年半位前の連休を利用して、私としては初めて奈良県へ妻と旅行しました。平城宮跡や東大寺などを見学した翌日、太子に縁(ゆかり)の深い法隆寺と太子が眠る墓所を訪れたのですが、皆さんは太子の墓がどこにあるのかご存知ですか?太子の墓所は奈良県内ではなく、大阪府南河内郡の太子町(たいしちょう)の叡福寺(えいふくじ)というお寺の裏山にあり、宮内庁が管理しています。
 その日の朝、私達は早めに奈良市内のホテルを出て、まだ人気の少ない法隆寺を見学した後、JRと近鉄の電車を乗り継いで上ノ太子(かみのたいし)駅という鄙(ひな)びた駅で降りました。その駅で下車したのは私達とおばさん1人の3人だけで、駅の周りは店や民家なども無いような所でした。バスの本数が少ないようだったので、駅の壁に貼ってあったタクシーの連絡先に電話して、タクシーで叡福寺に向かいました。沿道には振興住宅地みたいな所が多かったのですが、結構な距離を走った後、車は古くからの町並のような場所で止まりました。運賃は1,500円程度だったと思います。叡福寺は太子の墓所があるだけに門構えのしっかりした立派なお寺で、法隆寺の金堂や五重塔(火事で一度消失し、現在は二重か三重の塔です)を模した建物もあり、建物の総数も多く境内も広々としていました。残念ながらと言いますか、交通事情が不便なためか参拝者の数は少なく、おかげで私達だけが独占するような形でゆっくり見学できました。
 太子が眠る廟(びょう)とも言うべき建物は、お寺の奥の山裾にあるのですが、屋根の造りが独特の流線型で荘厳さがあり、太子が静かな環境の中に丁重に葬られているのが感じられました。この墓には、太子の実の母と正妻ではない何番目かの奥さんがご一緒に葬られており、この事にも何らかの理由があるのでしょうね。
 廟の前で、私は妻にタブレットで記念写真を撮ってもらったのですが、家に帰って見ると何も写ってなかったのは何故だったのでしょう。
 皆さんも是非一度、太子の墓を参拝していただければと思います。


令和2年10月
『水惑星の旅』 椎名 誠/著 新潮社 「本の詳細

 椎名誠氏の講演を私が佐賀市文化会館で聴いたのは、もう今から20年程前になりますが、椎名氏が壇上に一つ置かれた椅子に長い脚を組んで座られ、ご自身の体験談を1時間余りにわたって淡々と語られた記憶があります。話の内容は忘れてしまったのですが、大変興味深い話だったのと「この人はこんなに自由気ままに生きて、何で(収入を得て)生活しているんだろう?」と、失礼で恥ずかしい限りなんですが、いらぬ心配をしたのを覚えています。『水惑星の旅』も椎名氏が世界各地を旅して、如何に日本と言う国がきれいで清潔な水に恵まれているか、それにも拘わらず日本人は水の恩恵を殆ど実感していない。外国に行ってみれば、日本が特別に水資源に恵まれている事を理解できると多くの事例を挙げて説かれています。私も今回は、故郷”伊万里”の水資源、特に市内を流れる川の遠い昔(50年位前の事です)の想い出などを、初めてなんですが書きたいと思います。
 私の家の横には、今でも名前は知らない川が流れているのですが、土井町の方からと伊万里駅の方から、それと鉄橋(現在は松浦鉄道ですが、当時は国鉄でした)の向こうの田んぼ(当時は一面農地でした)の方からの水が合流して流れていました。その川でよく魚獲りなどして遊んだのですが、家の横の橋の下には赤い固まりに見えるものが、水の中にあちこちありました。その固まりは何かと言うと、裁縫の糸位の太さの赤いイトミミズがたくさん集まっているものでした。イトミミズはお互いに集まって丸い固まりになる性質があるので、それを釣り針に絡ませて魚釣りの餌として使ってたようですが、イトミミズが生息できる程の水環境が当時はあったのでしょう。私はイトミミズをその後見たことがありませんが、皆さんは見たことがありますか?伊万里川の相生橋の下流にあった復興橋(ふっこうばし)は当時、古びた木橋で路面は石混じりの土で所々に穴が開いており、そこから川面が見えたりしました。その少し下流には、干潮になると渡れる中洲みたいな干潟があり、大きめの石をどけるとゴカイがいくらでも獲れました。土曜日は小学校が半ドンだったので、学校から帰って午後からゴカイを獲りに行き、日曜日にはそれを持って伊万里湾に釣りに行ったものです。家の近くの新田川へもよく釣りに行ったのですが、龍神宮から伊万里ガスまでの間が私のホームグラウンドとも言える場所で、中学校から帰ると一人でほぼ毎日のように出かけて行ったものです。
 ところがある日、いつものように釣りをしていると、ウキがゆっくり沈んだので竿を上げると、何やらズッシリした感触が手に伝わってきました。引き寄せてみると何とそれは亀(グーズーと言ってました)で、その後ろから子亀が付いて来てるではありませんか。可哀想になって釣り針のなるべく近くから糸を切り逃がしてやったのですが、その母亀はこの後一生釣り針を口につけたまま生きて行くんだと思うとやり切れなくなり、その後、私は川へは釣りに行かなくなりました。(海へは何回も行っております)
 伊万里川を含めてこれらの川は、昭和42年の伊万里大水害の後、河川改修などで劇的に変貌しました。伊万里川の川幅は2倍位になりましたし、復興橋は鋼製の立派な歩道橋になり、トンテントンの川落しを見物する特等席になりました。新田川は以前は川幅4~5m位だったと思うんですが、今ではその4倍以上の川幅になり、常時流れていた川も今では殆ど流れがなくなりました。
 椎名氏は、日本人がもう少し水資源(河川)に対して謙虚な気持ちを持つべきだと言われますが、私は同感であるのと同時に、川を自然のままに残す事と大雨などの災害に対する安全性を確保する事を両立させるのは大変難しいと感じています。伊万里市の河川は、残念ながら昔のままの姿はなくなってしまいましたが、あの大水害以降は大きな災害に遭わずに済んでいます。河川用地の買収補償や工事に際して、工事をする側にも関係した市民の皆さんにとっても大変な苦労があったのでしょうが、先人達のおかげで伊万里市は災害に対して以前より飛躍的に強いマチになったと思います。自然環境と安全性のどちらかを選ぶか、伊万里市民にとって難しい選択の結果だったのでしょう。


令和2年9月
『逆説の日本史』(その3) 井沢元彦/著 小学館 「
本の詳細
『オオクニヌシ 出雲に封じ込められた神』 戸矢 学/著 河出書房新社 「本の詳細


 今回は、日本人なら子供さんを含めて知っている大国主命(オオクニヌシノミコト)の話なのですが、大国主命と言えば古事記の神話にでてくる”因幡の白兎”(いなばのしろうさぎ)の話やアマテラスのお遣いの神様への“国譲り”の話などを皆さんご存知と思います。大国主命は善いことをした神様だからなのでしょうが、全国の神社で最も多く祭神(さいじん)として祀(まつ)られている神様だそうです。その中で最も大きく有名な神社が島根県出雲市にある出雲大社です。
 しかし井沢元彦氏は『逆説の日本史』の中で、大国主命は出雲大社に祀られているのではなく、封じ込められたのであり、大国主命を封じ込めるために建てられたのが出雲大社だと言われています。井沢氏はその理由をいくつか挙げられてますが、出雲大社の祭殿に祀られている大国主命のご神体が、その周りを神話に出てくる屈強な数人の神様達に監視されるような配置になっている事、それから出雲大社の参道が普通の神社の参道とは異なり、下り坂になっている事などを根拠にされています。一般的に、神様は天上(てんじょう)にいると考えられていますので、参拝する人々が少しでも神様に近づけるよう、神社の参道は大概が上り坂になっていますが、出雲大社の参道は地下に潜るような下り坂です。それでは何故、大国主命を封じ込める必要があったのか。神話の中ではオオクニヌシは国を譲ったのですが、常識的には大事な国(領地)を他人に譲るなど有り得ないことで、実際は激しい戦いの末に敗れたオオクニヌシの領地が他人に奪われたということなのでしょう。
 そして、これが何故、国を譲った話になったのかというと、井沢氏は古事記にある“国譲り”の話は、天皇家の権威づけのためなのだろうと言われます。アマテラスが派遣した神様に譲られたオオクニヌシの領地は、後(のち)の天皇家の領地になるのですが、オオクニヌシのような立派な人物(神様)から国を譲られた天皇家には、それほどの徳がある事を言うためだそうです。古事記などの編纂を命じたのは後の天皇である天武天皇ですので、納得もできますよね。
 また、井沢氏は『逆説の日本史』の中で、日本人は怨霊(おんりょう)の存在を信じてきた歴史があると繰り返し説かれており、その代表が菅原道真なのですが、戦いに敗れて国を奪われたオオクニヌシを鎮魂し、怨霊として復活しないよう造られたのが出雲大社だということです。近年、出雲大社の境内に巨大な柱の跡がいくつも発見されたのをご存知の方もあるかと思いますが、出雲大社の建立当時は現在の姿と違い、奈良の東大寺や京都御所よりも本殿の高さが高い立派な建物だったようです。
 戸矢 学(とや まなぶ)氏も、著書の『オオクニヌシ 出雲に封じられた神』の中で、オオクニヌシは今の関西付近にいた豪族の長であり、戦いに敗れたオオクニヌシの霊を辺境の地(支配地の中で最も遠い場所)であった出雲に封じ込めるために建てられたのが出雲大社であると言われています。弥生時代は銅器が使われた時期から鉄器の時期に変わるのですが、オオクニヌシは銅器による農耕文化が栄えた時期に広大な支配地を持つ勢力の長でした。しかし、後から進出してきた鉄器(銅器より強靭です)を使う勢力に敗れて駆逐されたと井沢氏、戸矢氏ともに言われています。その鉄器を使う勢力の長が、後の天皇家になるのでしょうね。
 ところで、銅器の中でも銅鐸は、祭祀(さいし)の時に鳴らす鐘として用いられていた事はわかっていますが、当時、何と呼ばれていたのかが謎になっています。この銅鐸の名称について井沢氏は興味深い推理をされており、銅鐸は当時の人々からは”フルネ”と呼ばれていたと結論付けられています。
 蛇足になりますが、邪馬台国の卑弥呼と大国主命とどちらを先に書くべきか迷ったのですが、私は卑弥呼がアマテラスに繋がるもので、卑弥呼の時代は邪馬台国は九州にあったと思いたい人間なので、そうするとオオクニヌシは邪馬台国が関西に移っていく段階の人物(関係者?)ということになりますので、卑弥呼の話を先に書かせていただきました。



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