バックナンバー vol.7

伊万里市の泉秀樹副市長がおすすめする本の書評を掲載しています。
紹介された本は毎回、市民図書館の中央サービスデスクで展示していますので、どうぞご覧ください。
本を読みたい方は予約もできますので「本の詳細」をクリックしてください。



令和2年8月
『沈まぬ太陽』 山崎 豊子/著 新潮社 「本の詳細
『風にそよぐ墓標』 門田 隆将/著 集英社 「本の詳細

 今から35年前の昭和60年(1985年)8月12日午後7時前、東京から大阪へ向かっていた日本航空のジャンボジェット機(以下、日航機)が消息を絶ったとのニュースを私が聞いたのは、東唐津の妻の実家から一緒に自宅へ帰る途中の車の中でした。当時、絶対に落ちないと言われていたB747が墜落した可能性がある事に衝撃を感じると同時に、大量輸送の象徴のような飛行機ですから、どれ程の犠牲者が出たのか想像もできず、私は底知れぬ恐怖を感じた記憶があります。
 山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』は、この日航機墜落事故を主題としており、少なからず脚色があるのでしょうが、日本航空の労使対立(職種毎に複数の組合があり、互いにまた会社側とも対立があったようです)の事や、会社の上層部の人間に人命軽視とも言える考え方があった事、また航空業界に利権を持とうと暗躍する複数の政治家の言動等について赤裸々に描写してあります。
 その内容が余りにも迫真的なので私は読んでいて何度も絶句した覚えがあるのですが、あのような悲惨な航空機事故を引き起こす素地になったもの、及びその関係者への山崎さんの激しい怒りの感情が、率直かつ辛辣な内容の文章になったのではないかと推測しています。
 門田隆将氏の『風にそよぐ墓標』は、日航機事故の犠牲者となられた方々の内、6つの家族について、特に亡くなられた方々の息子さん達に焦点を当て、事故が発生してからの有り様と言いますか、生き様が詳細に描かれています。息子さん達がそれぞれの立場で、様々な形で悲惨な事故に関わっていかれる様子、そしてその家族の方々を含めてその後の人生がどう変わっていったのかも追跡がなされています。この本によれば飛行機の予約を変更して、或いはキャンセル待ちで事故を起こした飛行機に乗った人、また逆に仕事の都合等で直前に他の飛行機に変更した人達もいて、その中には有名な芸能人なども複数おられるようですが、本当に人の運命は一寸先もわからないものだとつくづく感じます。
 これからは私事になるのですが、大正13年生まれだった私の父は兵隊に召集され、昭和20年8月9日には福岡県小倉市の山の上にいました。小倉の傍の山中に配置されていた高射砲部隊の一員として、小倉に来襲する米軍機を迎え撃つのが任務でした。父の話では、その頃にはB29を迎撃する高射砲も既に無くなっており、代わりに高射機関銃というもので敵機(戦闘機と思われます)と1対1で対峙する戦闘になっていたようで、機敏な動きで爆弾も装備できる敵機にはものすごい恐怖を感じたと言っていました。
 その8月9日の朝、原子爆弾を搭載したB29の第一の攻撃目標は小倉でした。しかしその日たまたま小倉上空は雲がかかっていたため、B29は投下地点を上空から確認できず、旋回しながら晴れるのを待った後に小倉への投下を断念し、目標を長崎に変更したのです。そして、上空が晴れていた長崎に原子爆弾が投下され、10万人にものぼる長崎市民が犠牲になりました。天気次第で人生が変わる事もあると考えるとやりきれない思いもしますが、結果的に私の父は命拾いをし、父は旧制伊万里商業学校の卒業ですから、伊万里市内には父と同じように命拾いされた方も少なからずおられると思います。そのたまたま偶然の産物として、今、自分も生きていると思うと複雑な気もします。
 乗客乗員524名の内、奇跡的に助かった4名を除いて520名という多くの方々が亡くなった35年前のこの航空機事故の事を、皆さんの記憶に留めておいて欲しいと思うとともに、若い人たちにはこの2冊の本のどちらかでも読んで、この航空機事故の事を知って欲しいと思っています。



令和2年7月
『三陸海岸大津波』吉村 昭/著 文藝春秋 「
本の詳細
『津波てんでんこ』山下文男/著 新日本出版社 「本の詳細

 吉村昭氏が書かれたこの本は昭和45年に別のタイトルで発行されたのですが、昭和59年に『三陸海岸大津波』という名前に改題されたものです。吉村氏は三陸沿岸を襲った3つの巨大津波の痕跡を求めて岩手県内を歩き回り、現地に残っている資料と併せて津波の実態やその恐ろしさを本の中で克明に再現されました。吉村氏があまり頻繁に現地を訪れるので、ある村の村長さんや助役さんとも親しくなり、吉村氏はその後も毎年その村を訪れて旧知の人と会ったり、いつも同じ服装で堤防で釣りをするので村人に吉村氏の来訪がすぐに知れ渡るようになった、と奥様の津村節子氏が話されています。
 『津波てんでんこ』の著者である山下文男氏は日本共産党の党員の方ですが、津波災害史研究家であり、ご出身地は岩手県の沿岸部です。「てんでんこ」は岩手の方言で、てんでに行動する(逃げる)という意味だそうで、「津波てんでんこ」を平たく言えば、津波が来そうな時は他人に構わずに一目散に山や高台へ逃げなさいという事になります。山下氏も吉村氏と同じように三陸沿岸を襲った津波を徹底的に研究され、結果的にこの教訓にたどりつかれたもので、この本は東日本大震災の年の3年前の2008年に出版されています。
 東日本大震災時に発生した千年に一度とも言われる巨大な津波に呑まれて、宮城県石巻市立大川小学校の全校児童108名の内、74名の子供達が亡くなりました。また同校の先生方10名と児童の保護者や地域住民の方もたくさん亡くなられています。
 地震後の津波警報を聞いて、大川小学校のすぐ傍にある小高い山のほうに向かって走り出した子供達は、先生に大声で注意されて戻って来たそうです。集団行動を乱す行為だからダメだという事なのでしょう。子供達は本能的に山へ向かって逃げたのでしょうが、先生に呼び戻されたがために、その多くの子供が本来なら助かっていた命を失ってしまいました。
 この大川小学校の事件で私がずっと疑問に思っていたのは、この学校の先生達は誰もこの2冊の本を読んでいなかったのだろうかという事でした。先生の誰かが読んでそれにより行動を起こしていれば、大川小学校の事件は違った結果になっていたのではないかと考えると残念でなりません。
 作家の曽野綾子さんは東日本大震災の後、大川小学校の跡地を訪れた時に、「大川小学校が建てられていた土地が、海岸から数km離れているにもかかわらず大変低いのに驚いた。」と言われています。現地を初めて訪れた曽野さんが気付いたのですから、大川小学校の先生方は過去に赴任された先生方を含めて、学校が低地に建てられている事を知っていたはずです。
 先生達の誰かがこの2冊の本のどちらかでも読んでいれば、津波が来れば生徒達が危険であることに気付いて、避難のために学校の傍の少し急峻な山に登る歩道があればと考えたでしょう。そこで学校から教育委員会を通じて宮城県や石巻市に要望すれば、反対する者はいないでしょうから短い期間で歩道を造れたのではないかと思います。
 また当時、大地震の後の津波からどこへ逃げるか、という危急の判断を迫られた時に、先生達の誰かが2冊の本が示していることを根拠にして、「津波を経験した先人達が、津波の時には山や高台へ逃げろと教えている。」と強く主張すれば、他の皆さんを説得できたのかも知れません。
しかし実際は、山は土砂崩れが心配だという意見に押し切られ、川に近い小高い場所への避難が決断されました。この大川小学校の悲劇は、たくさんの教訓を私達に教えていると思います。大きな災害や困難に際して、助かるはずの生命を必ず助けるために私達は普段から何を考え何をするべきか、もう一度見直してみる事も大切なのではないでしょうか。



令和2年6月 『スーパー望遠鏡「アルマ」が見た宇宙』福井康雄/編著 日本評論社 「本の詳細

 私は時々気まぐれか気晴らしか、それとも興味本位からなのかよくわかりませんが宇宙に関する本を読みたいと思う時があります。このアルマ望遠鏡の本を読んでみようと思ったのは、昨年、天才物理学者アインシュタインが相対性理論の中で、その存在を予言したブラックホールを世界各地に存在する複数の電波望遠鏡を束ねて一つの巨大な望遠鏡として運用する事により、初めて映像として捉えるという画期的な事があったこと。そして、その中心的役割を果たしたのが南米チリのアンデス山脈の標高5,000mの高地にあるアルマ望遠鏡である事を知ったからです。近年、宇宙の観測には電波望遠鏡が大きな役割を果たしているのですが、この本の中では電波望遠鏡のしくみ、それによりわかってきた宇宙の成り立ちや宇宙の”姿”というものが丁寧に説明されています。しかし専門的な知識が必要だったり難しい所もありますので、私は残念ながら理解できない部分は飛ばして読んだのですが、人知では到底計り知れない宇宙の無限とも言える広さや存在する莫大な星の数、また宇宙には不思議な現象が数限りなくあることに非常な感動を覚えました。
 そのエッセンスを少し紹介しますと、宇宙はその誕生(ビッグバンという現象です)から約138億年が経過しており、地球から最も遠い星までは130億光年(光は1秒間に約30万kmも進みます)以上の遥かなという言葉では尽くせない距離があること。地球は銀河系という銀河(星の固まり)に所属しているのですが、銀河系には数百億個から1千億個の星があること。この場合の星というのは、恒星(太陽のように自ら光を放つ星)と惑星(地球のように恒星の周りを回る星)の数を足したものだと思います。
 また宇宙には銀河と呼ばれる星の固まりが1千億個くらいあるそうなので、宇宙全体での星の数はどれ位あるのか、想像もつきません。地球は誕生から約46億年経過しており、地球上に生命が生まれたのは今から40億年位前だそうです。人類は今から数十万年前に生まれたと言われてますが、文明が目に見えて発展したのは18世紀半ばの産業革命以降ですので、人間が近代的な生活を営めるようになってからまだ3百年も経過していないんですね。しかし、それからの人類の文明の発展は産業や経済、文化など全てにおいて大変目覚ましいものがあります。
 元東京都知事の石原慎太郎氏が、あの車椅子の天才理論物理学者として有名なスティーブン・ホーキング博士の逸話として、「ホーキング博士は、この宇宙に高度に文明が発達した星はいくつあるかと問われて、即座に200万個と答えた。そんなにあるなら何故それらの星の間に接触があった痕跡が見当たらないのかと重ねて問われたのに対し、それらの高度に文明が発達した星は急速に環境的(気候変動や自然災害の事)、社会的に不安定になり宇宙的時間にすればあっという間に滅んでしまうためであると答えた。」と言っておられました。 この200万個という数に私は多すぎるのではないかという疑問をずっと持ってたのですが、この本を読んで宇宙にある星の数が膨大なものであることを知り、少し納得はしました。
 地球における近年の急速な文明の進歩や発展は目覚ましいものがあり、先進国と言われる国の人々は便利で快適な生活を送れるようになりましたが、世界や周りの状況を見渡せば殆どの人が地球の将来に一抹の不安や心配を抱いてるのではないでしょうか?今度の新型コロナウイルスの問題にしても、今後世界が不安定化する要因になりかねないと思います。
 ホーキング博士は、宇宙には200万個の文明が発達した星がある(これは宇宙の悠久の時間の中での話だと思いますが)と言いましたが、この本に書かれているように、それでも地球は無限の宇宙の中でも人間が住める環境がある奇跡のような貴重な星です。我々人類皆がもう一度その事に気が付いて、かけがえのないこの地球を大切にしていきたいものだと思います。


令和2年5月 『逆説の日本史』(その2)井沢元彦/著 小学館 「本の詳細

 日本の事が歴史に登場したのは、邪馬台国から魏(当時中国にあった国の一つ)に派遣された使者の話が『魏志倭人伝』に書かれたのが最初のようです。私も中学校の歴史の授業で邪馬台国(やまたいこく)は卑弥呼(ひみこ)という名前の祈祷師のような女性が統治していたと教わりました。
 しかし井沢氏は『逆説の日本史』の中で、“邪馬台”は当時の中国では“やまど”若しくは“やまと”と発音されていた事、また“卑弥呼”は人名ではなく“日の御子(ひのみこ)”若しくは”姫巫女(ひめみこ)”のことだと解説されています。
 魏の人達(恐らく役人)は、邪馬台国の使者から聞き取った言葉をそのまま漢字に直したのだろうこと、それに身分が高い人の名前を呼び捨てたりしないのが昔からの常識であること等を考えると井沢氏の解説には説得力があり、私も目からうろこが落ちる気がしました。
 井沢氏はこのことから邪馬台国は近畿地方にあったのであろうと推測され、また卑弥呼が活躍した紀元3世紀半ばに皆既日食があり、丁度その頃卑弥呼から代替わりがあった事を指摘されています。日中に突然、太陽が隠れて暗闇になることは当時の人々にとっては驚天動地の出来事であっただろうし、この頃他国との戦に負けが続いたことで、人々が”日の御子”である卑弥呼の霊力が衰えたと考えて抹殺したのではないかと井沢氏は考えられたようです。また、この皆既日食による統治者の代替わりという事件は、古事記の神話にあるアマテラスの天岩戸(あまのいわと)隠れの話と何らかの関係があるのではないかとも指摘されています。
 井沢氏の説では邪馬台国は近畿地方にあったことになるのですが、梶原大義(かじわらもとよし)氏は『邪馬台国と卑弥呼推理行』という本の中で、『魏志倭人伝』に書かれている内容に忠実に従えば、邪馬台国は九州の有明海沿岸部の地名でいえば大牟田、羽犬塚周辺にあったと主張されています。邪馬台国は広大な地域を支配していた大きなクニだったのでしょうから、この場合は卑弥呼が住む都が有明海沿岸部にあったということです。
 梶原氏が言われるには「当時は作物(米)を植えてから収穫までを1年と数えていたので、現在の1年を2年と数えていた。このため1日は2日と数えることになる。」という2倍年暦という暦法により、『魏志倭人伝』にある水行○○日、陸行○○日などの記述を忠実に再現すれば、大牟田付近にたどり着くそうです。この2倍年歴の考え方を使えば、欠史八代と言われる天皇の多くが100歳以上の長寿であったことを説明することもできます。
 また当時は陸の上を行くのは道も無く大変な時代だったので、なるべく人々は海の上を船で行ったであろうことから、梶原氏は湾が深く入り込んでいる伊万里付近を上陸地点に利用したのではないかと嬉しい推測をされています。
 この他、戸矢学(とやまなぶ)氏は『卑弥呼の墓』と『アマテラスの二つの墓』の中で、卑弥呼の時代は邪馬台国は九州にあり、その墓は支配地の中で最も風水(ふうすい)的に良い場所に造ったはずである。結論としては大分県にある宇佐神宮の応神天皇と神宮皇后に挟まれた形で、中央に祭られている女性が卑弥呼であり、その場所が卑弥呼の墓であると主張されています。
 そして卑弥呼こそ神話に出てくるアマテラスなのであり、その娘の“いよ”を含み複数の女性を併せてアマテラスと言っているのかもしれないとも言われます。このように神話の話は空想の世界の事ではなく、何らかの根拠があったのでしょうね。いずれにしても邪馬台国が、次第に九州から近畿地方に移って行った(東遷)ことに関しては皆さん同じ意見のようです。
 私は昨年の平成から令和に元号が代わる連休を利用して、妻と二人で世界文化遺産に登録された福岡の宗像大社と大分の宇佐神宮に行って来ました。宗像三女神の中の女神様の一人が、宇佐神宮の中央に祭られている女性の神様と同じかどうかを確かめるのが目的だったのですが、同じらしいということだけはわかりました。その女神様の名前は多少違っているのですが、文字が無かった時代の話なのでよくある事なんだそうです。でも由緒ある宇佐神宮の中央に祭られている女神様、それも応神天皇と神宮皇后の祭殿よりも立派な建物に祭られている女性はいったい誰なのでしょうか。
 こういう事を考え始めると、まだ文字がなく本当の事がわからない日本の古い時代の話に興味が尽きませんよね。



 →メニューに戻る